火之神平和祈念展望台
ここには今から72年前に「海上特攻」で沖縄に出撃した10隻の第二艦隊乗組員戦没者を慰霊する記念碑と戦没地点を望む広場があります。この平和祈念展望台沖には昭和20年(1945)4月7日枕崎沖200kmの海面で戦艦大和を含む6隻の艦艇が戦没しました。毎年4月7日に催される戦没者追悼慰霊式典には全国から元乗組員や御遺族の方々を始め、多くの一般参列者を迎えて営まれています。この展望台広場からは戦艦大和以下6隻の戦没海域を遠望することが出来ます。参道の両側にある石灯篭は戦死者のご遺族、及びその関係者の寄贈され、現在63基あります。

海戦の話
昭和20年3月、アメリカ軍が沖縄へ上陸することが濃厚となり、海軍軍令部総及川古史郎大将が天皇陛下に海軍の対応を問われ「なお一層の特攻攻撃を致します」と奏上したが、陛下は「もう海軍には船がないのか」と問われました。そこで海軍は従来の航空機による特攻に加えて急遽、軍艦による「海上特攻作戦」をたてます。戦艦大和を沖縄の海岸に乗り上げて「海の砲台」にするという作戦です。
戦艦大和、巡洋艦矢矧(やはぎ)、駆逐艦 冬月・涼月・雪風・磯風・浜風・霞・初霜・朝霜。10隻の第二艦隊が4月6日夕刻、山口県徳山沖で燃料を給油後、出撃し、翌7日、大隅海峡から枕崎沖を午前6時前に通過し、一路沖縄に向いますが12時32分、枕崎沖西南西約160kmの地点でアメリカ空母12隻から発進した艦載機、述べ386機の攻撃を受け、2時間に及ぶ激しい戦いの後、大和 は14時23分、10発の魚雷と8発の爆弾を受けて転覆・沈没しました。枕崎沖200㎞の海域です。
展望台下=右側の写真パネル
右側パネルの写真7隻と、左側パネルの左端縦3隻を加えた合計10隻です。中央の爆煙は大和が横転沈没した際に積んでいた1発1460㎏の主砲弾、約1200発が倒れて火薬庫に引火し、大爆発した時の写真です(米軍機撮影)。この煙は6,000mの高さにまで達したと米軍側の記録にあります。通常爆薬で、1隻の船で6,000mの爆煙は想像を絶する大爆発で、その爆発音が200km離れた枕崎まで聞こえました。
右上中央の菊の紋章のカラー写真は平成17年に上映された映画[男達の大和]の原作者「辺見じゅん」さん達「海の墓標委員会」が昭和57年から3年に及ぶ潜水艇での調査の結果、昭和60年(1985)にこの菊の紋章が付いた艦首部分を発見しました。日本の軍艦では巡洋艦以上の大型艦の艦首に菊の紋章が付けられています。この海域で沈んでいる大型艦は大和と矢矧だけです。その菊の紋章は直径1.6mありました。この紋章の大きさから「大和の艦首」と判りました。 沈没位置は枕崎の西南西200Km、海底340mに2つに割れて沈んでいます。
この海戦で日本側損害は、全乗組員7,236名中、戦死者3,721名(51%) 艦艇の損失は大和を含めて6隻(戦艦大和・巡洋艦矢矧・駆逐艦=朝霜・磯風・濱風・霞)。戦艦大和は2,740名の戦死者がありました。一方、アメリカ軍の損害は、飛行機10機、戦死者14名と記録されています。


慰霊碑前に立つ 大和の話
今回の作戦の主役「戦艦大和」は直径46cmの大砲を積んだ世界最大の戦艦です。砲弾1発の重さが1.46トン。長さが約2m、最大飛距離は42km。凡そ1200発積んでいました。
司令塔の昇り降りはエレベーターです。艦内の主要部分には冷暖房が施されており、陸軍からは“大和ホテル“と呼ばれていました。主砲の三連装砲塔は1基2740t×3基あり、それらを含め全てを動かす電力は現在の5万人都市の1年分の消費量に相当する発電量(4800Kw)がありました。 そのため停泊しているだけで1日50tの重油が必要でした。「油の一滴は血の一滴」と叫ばれていた時代に・・・・です。
射撃の発令所(コントロールルーム)には歯車式電動自動計算機が導入されており、キーボードで数値を打込むと自動的に主砲や高角砲の射撃諸元がセットされました。このような精密機械の弱点は「熱・湿気・ホコリ」に弱いこと。それらから守るための空調です。決して乗組員の福利厚生のためではありません。
建造費用は当時の金額で凡そ1億4千万円、昭和39年(1964)に完成した新幹線(東京~新大阪)の総工事費に相当する金額です。当時の日本の国力と科学技術の粋を傾けて造った船でしたが、完成した時は大砲の時代から飛行機の時代に移り、この大戦では余り華々しい活躍はありませんでした。
大和は帰ることのない「特別攻撃」です。艦長は乗組員の中の「傷病者・45歳以上の老齢者」更に、この年の3月30日に海軍兵学校を卒業したばかりの少尉候補生73名も「後世に人材を残す」という名目で下艦させていますが、その一方で、軍人でも軍属でもない「雇人(一般民間人=散髪・料理・洗濯・被服縫製など)」の就業者は降ろされず、6名が戦死。更に4名の特別年少兵(15~17歳)の内、最少の古川嘉之上等水兵(15歳1ヵ月の)が戦死しました。戦争も負け続けると、このような子供までも戦場に出さなればならない戦争の過酷さを忘れないでください。
2時間に及ぶ激しい戦闘は圧倒的なアメリカ軍の勝利で終わりましたが、日本側の乗組員全員、精一杯与えられた任務を全うして亡くなられました。古川嘉之上等水兵は、昭和19年(1944)海軍通信学校(現:防府市)に入校。翌、昭和20年通信兵として2千名の同期生中ただ一人、第二艦隊司令部に配属されて戦艦大和に乗組みました。同期生は「お前は不沈戦艦にのれていいな~」と羨みましたが、同期生で戦場で戦死したのは古川さん一人でした。戦艦大和最年少の戦死者です。



[参考文献及び資料]
・水交会。 ・防衛省防衛研究所。・特別攻撃隊全史((財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会。 ・ドキュメント神風(徳間文庫)。